お誕生日おめでとう
2007年 05月 18日
ひっそりと、マッキーのお誕生日を祝ってみる。
38歳になったのね。
おおぅ。私が38歳になった時、どう思うんやろうか?
毎日関西で朝にやってる「なるとも」という番組では、その日誕生日の有名人を紹介するコーナーがあるんやけど、それもしっかりチェック。マッキーも紹介されてた☆
そしたら、5月18日は「ことばの日(518)」ということも言ってて。
ちょっと無理やり感が否めないゴロあわせだけど(そうでもない?)言葉の日生まれって、彼にぴったりだなと思いました。
んで、今日は言葉について少し。
昔書いてた日記でも、何度か書いたけど、「言葉」というもの。
新約聖書で『初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった』
とある。
人間は昔、言葉というものを持っていなかった。
それまでは気持ちをどうやって相手に伝えていたんだろうか?
ジェスチャー?テレパシー?
手段はよくわからないけど、こういう文章があるということは、言葉が出来てから意思の疎通が出来、そのため言葉を神と同義化してるんだ、と思ってた。前はね。
でも今回、色々調べてみるうちに、そうでもないのかも・・・と思い始めた。
参考URL
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50704750.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sensuiartbrain/6369929.html
http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/2006/12/post_e27a.html
他にも、多数。
聖書の言葉も、日本語訳で「言葉」としているだけであって、ギリシャ語では「思想」とか「理念」を意味するらしい。
ふむ。
私の持論に「言葉(単語)というのは難しく、各々が自分の中に辞書を持っていて、それぞれ少しずつ意味が違っている」というのがある。
だから同じ言葉を書いてるのに、意味のニュアンスが違ったり、逆もしかり。
だからこそ言葉でわかりあうってことの難しさを痛感している。
うん。
もしかしたら、無理じゃね?わかりあうのって。
メールや文章では、どうやってもニュアンスは伝わらない。
また、違う辞書を持ち合わせている人同士は、理解できない。
上の考えは、考えることを放棄したとか、投げやりになっていっているのではなく、それが真実なんじゃないかなーと思いはじめてるのですな。
頑張れば頑張るほど、泥沼に嵌っていく。
解決策はない。
数学での10÷3は「3.333333333……」という答えのように、どこまでいっても平行線。
割り切れない、ってのが答え。
数学みたいに目に見えないから答えがあるようだけど、ないんじゃないだろうか?
わかりあえたら幸福だけど、わかりあえないっつうのもしょうがないが一つの答え。
ことわざって沢山の人が使い続けてある種の真理があるものだけが残っていると思うのだけど、その一つに
『沈黙は金 雄弁は銀』
というのがある。
この言葉も色んな意味に取れるけど、ほんとそうなんじゃないかな~。
マッキーは今、裁判で争っている。
裁判ちゅうのは、判決である種の答えが出る。
今回のように、答えが出にくく、色んな誹謗中傷・意見が飛び交う事件にも、ある「答え」は必ずる。
世の中には、答えがないと許せない人も存在しているので、その人たちのために争っているのではないかなと思いました。
争いたくないけど、争うことで楽になる人が居るなら争うか。
そんな考えもできるよね。
言ったり書いたり発表したりしているのは、全て言葉である限り、読む人の受け取る角度で全然違ったものになる。
これが正しい、あれは間違っている。
それは自分の心の中、もしくはすぐに流れてしまう発する言葉に留めておいて、残るものであるものは書かないのが賢いのかも。
話が言葉というものに、寄り道しましたが、
マッキーお誕生日おめでとう。
過去も現在もそして未来も。
あなたにもらったもの、もらえるものは沢山あると思うので、これからもずっと歌っていって欲しいな。
38歳になったのね。
おおぅ。私が38歳になった時、どう思うんやろうか?
毎日関西で朝にやってる「なるとも」という番組では、その日誕生日の有名人を紹介するコーナーがあるんやけど、それもしっかりチェック。マッキーも紹介されてた☆
そしたら、5月18日は「ことばの日(518)」ということも言ってて。
ちょっと無理やり感が否めないゴロあわせだけど(そうでもない?)言葉の日生まれって、彼にぴったりだなと思いました。
んで、今日は言葉について少し。
昔書いてた日記でも、何度か書いたけど、「言葉」というもの。
新約聖書で『初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった』
とある。
人間は昔、言葉というものを持っていなかった。
それまでは気持ちをどうやって相手に伝えていたんだろうか?
ジェスチャー?テレパシー?
手段はよくわからないけど、こういう文章があるということは、言葉が出来てから意思の疎通が出来、そのため言葉を神と同義化してるんだ、と思ってた。前はね。
でも今回、色々調べてみるうちに、そうでもないのかも・・・と思い始めた。
参考URL
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50704750.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sensuiartbrain/6369929.html
http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/2006/12/post_e27a.html
他にも、多数。
聖書の言葉も、日本語訳で「言葉」としているだけであって、ギリシャ語では「思想」とか「理念」を意味するらしい。
ふむ。
私の持論に「言葉(単語)というのは難しく、各々が自分の中に辞書を持っていて、それぞれ少しずつ意味が違っている」というのがある。
だから同じ言葉を書いてるのに、意味のニュアンスが違ったり、逆もしかり。
だからこそ言葉でわかりあうってことの難しさを痛感している。
うん。
もしかしたら、無理じゃね?わかりあうのって。
メールや文章では、どうやってもニュアンスは伝わらない。
また、違う辞書を持ち合わせている人同士は、理解できない。
上の考えは、考えることを放棄したとか、投げやりになっていっているのではなく、それが真実なんじゃないかなーと思いはじめてるのですな。
頑張れば頑張るほど、泥沼に嵌っていく。
解決策はない。
数学での10÷3は「3.333333333……」という答えのように、どこまでいっても平行線。
割り切れない、ってのが答え。
数学みたいに目に見えないから答えがあるようだけど、ないんじゃないだろうか?
わかりあえたら幸福だけど、わかりあえないっつうのもしょうがないが一つの答え。
ことわざって沢山の人が使い続けてある種の真理があるものだけが残っていると思うのだけど、その一つに
『沈黙は金 雄弁は銀』
というのがある。
この言葉も色んな意味に取れるけど、ほんとそうなんじゃないかな~。
マッキーは今、裁判で争っている。
裁判ちゅうのは、判決である種の答えが出る。
今回のように、答えが出にくく、色んな誹謗中傷・意見が飛び交う事件にも、ある「答え」は必ずる。
世の中には、答えがないと許せない人も存在しているので、その人たちのために争っているのではないかなと思いました。
争いたくないけど、争うことで楽になる人が居るなら争うか。
そんな考えもできるよね。
言ったり書いたり発表したりしているのは、全て言葉である限り、読む人の受け取る角度で全然違ったものになる。
これが正しい、あれは間違っている。
それは自分の心の中、もしくはすぐに流れてしまう発する言葉に留めておいて、残るものであるものは書かないのが賢いのかも。
話が言葉というものに、寄り道しましたが、
マッキーお誕生日おめでとう。
過去も現在もそして未来も。
あなたにもらったもの、もらえるものは沢山あると思うので、これからもずっと歌っていって欲しいな。
by arumi-okano
| 2007-05-18 12:35
| 思考日記